覚悟もないくせに乗り込んで
それでもあなたは僕を
065:どれだけ手を伸ばしても風を掴むことは出来ないって、君も知っているでしょう
着ふるされて裾のほころびたシャツをはおり、ライはクラブハウスを抜けだした。ゲットーと言う名の無法地帯へ繰り出していく。そこで行われるのは甘やかな抱擁だけではない。抱擁に連なって出てくる性質の悪い男どもと暴力沙汰になることなど日常茶飯事だ。札束が紙くずへ変わり念書も意味を成さない。金銭の価値は著しく堕ち物価は妙に高い。それでいて口約束は案外護られるし慣れたものには居心地が良い。ゲットーへ顔を出してその裏へ裏へとライは入り込んでいく。まだ租界と出入りできる場所ならまだしも完全な路地裏ともなればそこかしこで略奪や暴力や理不尽があふれ返った。ライは何故だかそう言う場所を目指している。人々の居住区域は日々その境界線が違うほどに流動的で曖昧だ。花の鉢などあしらう窓辺があれば勝手口には残飯がみっしりと詰まった籠が放置されていたりする。リフレインと言う名の麻薬が横行し、ライも参加したがただ一度で全てを遮断できるほど相手側も浅くない。すぐさま別ルートで流通する。路端に座り込んでぼんやりしているとすぐに懐や隠しを探られる。この領域では盗まれる方が悪いという理不尽が常識だ。
ライも拳銃や小型ナイフくらいは携帯している。何処で覚えたか体捌きにも自信がある。ちょっとした喧嘩やもめ事で負けてやる気はない。そもそも非合法団体の所属員としては身元が割れては少々困る。敗者が徹底的に暴かれる反面で勝者には沈黙と秘匿の権利が与えられる。ここの規則をライもようやく覚え始めた。酒と煙草もたしなむ。一緒にのまねぇなら消えな、隣にいられたら気味が悪いんだよ、とは盛り場でよく交わされる言葉だ。あからさまに学生服ででもない限りは一人前として権利と責任が与えられる。ライの見た目は明らかに学生だが学園服は着ない。この路地裏で購入した少しほころびのあるシャツに黒と言っていい濃紺のズボンだ。誰の何が沁みているか知れたものではないから一度だけ洗濯したが路地裏へ通うにしたがってそう言ったことも気にならなくなってきた。ふわ、とかぎ慣れた香りがした。同じ非合法団体のものだ。嗅覚で捕らえたような視覚で捕らえたような、気配が一番近いかもしれない。ライの目の前には運河が広がっておりそこへ流れ込む幾本もの水路が見える。放射状に集まるそれらの薄い造りの上をひょろりとした人影が渡り歩く。溝の際を歩く様はまるで猫である。しかもライと同じように着古されたジーンズに釦もろくにないシャツといういでたちだ。刳れたような腹部や臍が見えてライの心臓が柄にもなく速く脈打った。とっとっと、と駆けたかと思うと汚水の流れ込む開口部をひょいと跳躍して飛び越す。着地も上手い。手慣れている証拠である。
その人影はライに気付いていないかのように放射状のそこをぐるぐる回る。落ちやしないかと危ぶむライはそのどこかで落ちたらいいのにとさえ思う。
「なにしてるんですか!」
耐えきれなくなったのはライの方で声をかけた。人影が振り向く。卜部だ。にやりと口元だけを歪めて笑んだ。運河は排水の捌け口になっているからけして清潔とは言い難い。汚水や残飯、様々な毀れ物などが流されて吹き溜った。卜部はとつとつと軽やかな足取りで足音も失く猫のようにライの傍へ着地した。屈んでいた背が伸びるとその突出した長身が際立つ。同じ団体の藤堂も長身だがそのさらに上を行く。だが幅はあまりなく、腰や腹など驚くほど華奢だ。痩躯なのである。食っても肉がつかねェから止めた、とは本人の談である。食事に偏食は見られないとライは認識している。ただ蝉と蜻蛉を食うのは仲間内でも嫌がられている。
「夏が近ェな」
蓮っ葉な話調など卜部はイレヴンと呼ばれ蔑まれて底辺を這いずる日本人であることを暗に示している。運河や排水はぷんと臭い始めている。腐敗の梅雨を迎えて雨がひと段落したかと思えば食べ物は端から腐るし水にもあたる。食中毒で腹を毀すこともある。非合法な活動家でもあるライや卜部達は滅多に医師にかかることなど出来ないから健康管理には特に気を使った。
「でぇ? なんでお前さんがこんなとこにいるンだよ」
卜部の言い草である。ライはむっとくすみのない頬を膨らませてそっぽを向いた。卜部の言葉には世間知らずや子供扱いの色が窺えてライはそれを過敏に感じ取った。
「道に迷ったのかよ。お前さんが来るようなァ場所じゃねぇぜ。紅月辺りが聞いたら卒倒するぜ」
「カレンは関係ない。ここにいるのは僕の意志です。僕だってただの世間知らずや記憶喪失のままじゃない…」
そこで言葉が切れた。唇が重なっていた。卜部の方が丈があるから自然と見上げる体勢になる。そのまま頤を固定されてライはびくとも動けない。卜部は好き放題貪りあさってから唇を放した。濡れた舌先が二人分、紅くちろちろと燃えて透明な糸を引いた。ライの体は火照っている。手当てが取り急ぎ必要だがそれを卜部に悟られたら恥ずかしくて目も当てられない。必死に無表情を取り繕うが潤んだ双眸や薔薇色に染まった頬までは隠しきれない。
呼気を荒げながらも何でもない顔をするライに笑いながら卜部が背後を振り向く。
「何だァ観客がいるぜ。只見はごめんだとっとと失せな」
卜部は明らかに相手を馬鹿にした様子でしっしっと手で払う。相手は複数だ。二・三人。みんな手に獲物を持っている。それはナイフであったり銃であったりした。刹那、ライの中でスイッチが入ったような気がした。
「のっぽはいらねェその小奇麗なガキだけよこしな」
それが始まりの合図。
ライの足が地を蹴り、一気に相手との間合いを詰める。相手が銃を構える。ライの眉間だ。刹那、体を沈ませて足払いをかける。ぱぁんと破裂音だけさせて銃弾はあてどなく飛んだ。肩口を狙ってライは撃った。ぱんぱんと軽い破裂音が連続する。ライは銃口を脚元へ向けると相手の足もとあたり一帯を無差別に射撃した。脚を撃たれて逃げようのない相手の肩や脚を撃ち抜く。これで拳銃は使えないだろう。同時に相手の拳銃自体にも銃弾を撃ち込む。ばんと内蔵していた銃弾ごと銃が爆発する。卜部の方はどうなったかと見るライの白い頬に紅い返り血はぴピッととんだ。
ギャアアあという叫び声。卜部のナイフは正確に相手の指を切り落とした。これでは引き金は引けまい。背後から狙う輩には回し蹴りを見舞う。拳銃を掴む手が弛んだ刹那、卜部はその手ごと拳銃を爆発させる。指を失くした男の頭を卜部の大上段の蹴りが襲った。だぁん、と音がして卜部の長い脚が男の頭部を壁に押し潰していた。ごりっと擦る音がする。擦過傷は案外治癒に時間がかかるし、顔面は皮膚が薄いので出血すれば容易には止まらない。
「悪ィな、利き手、もらうぜ」
パンと拳銃を撃ち飛ばした後でナイフが走りその神経さえ切断した。考えられないような出血が起き、卜部のシャツはみるみる紅く染まっていく。相手の男はすでにパニックを起こしていて逃げようとして必死だ。
「何だ、案外つまらねェなァ」
卜部はあっさりと男を解放した。それを潮に襲撃者たちは敗北者となって散り散りに逃げていった。あとに残ったのは血まみれの卜部と頬とシャツを汚したライだけだ。卜部は利き手など無意味であるかのように両手で持ちかえつつ拳銃とナイフとを駆使して戦闘をこなす。近接戦闘と同時に銃撃戦もこなせる柔軟さが垣間見えた。さすがは『奇跡の藤堂』の直属四聖剣と言ったところか。
「お前も帰んな。キス一つで動揺するような子猫はおうちでおとなしくしてな」
そのままどこかへ行こうとする卜部のシャツの裾をライは思わず掴んでいた。卜部は風の様だ。頬を撫でてくれたかと思えば情け容赦なく吹きつける。思わず掴んだが言葉はない。
「…――い、一緒に、いてくださ、い」
卜部が刹那、きょとんとした。すぐに噴き出して笑いだす。かたかたと機械のように笑いながら驚くほど冷たい茶水晶がライを見ていた。
「世間知らずに用はねェよ。お家に帰ってママの代わりの枕でも抱いてな」
ぴん、と弾かれてシャツがするりと抜ける。ライは逃がしたくない一心で卜部に抱きついた。痩せて細い腹部に腕を巻きつける。何か言う前に卜部から言葉が降ってくる。
「ここはお前みたいな綺麗な奴がいていい場所じゃあねェんだよ。租界のまわりのゲットーで我慢してな。こんな路地裏にいたらいけねェ」
生き残れないぜ、とうそぶかれる。がちん、と音をさせて撃鉄の起きる音がした。ライの目交いに暗渠の様な銃口が据えられていた。
「ほら、死んだ」
ばん、と卜部が口で銃撃音を奏でる。どんな事態でもどんな体勢でも反撃の意志がねェとここじゃあ死ぬだけだぜ。何も知らずに解体業に運ばれて、体ばらされて臓器にされッちまうぜ。卜部は恐ろしいことをうそぶきながら自らがその世界の住人であることを隠そうともしない。だがライには入ってくるな、帰れ、と繰り返す。それは卜部の無骨な優しさだ。この黒々とした暗渠に嵌まってしまう前にお前は還れ、と。だがそれはライの望みではないことに卜部もライも気づいている。
「こっちむいてください!」
掴まれた裾を払うように反転した卜部の黒蒼の髪を鷲掴んで引き寄せる。そのまま唇を重ねた。卜部には珍しく完全な不意打ちだったようで無防備に開いた口腔をライは蹂躙した。
「これでも子供扱いしますか?」
ライの手がするりと卜部の脚の間を撫でる。それは一定の嗜好の者たちの間では了解を求める問いでもある。卜部はくっと口の端を吊り上げた。皮肉げに笑うことの多い卜部だがそれは単純に卜部が素直ではない体とライは最近ようやく気付いた。日本人としてイレヴンにされて底辺を這った経験がそうさせるのだろうと思わせる。ライにはイレヴンどころか近年や近親者の記憶さえない。暮らしや勉強には困らないものの、感情的な流動を覚えたのは卜部が初めてだった。それまでのライはまるで死人が時代を超えて生き還ったかのように見知らぬものばかりの世界で生きていた。指摘された体捌きと戦闘経験。戦闘機を繰る腕も標準より上らしい。それでもライを見たり聞いたりして、知己ではないかと名乗り出るものはいなかった。
卜部には正直きついことを何度も言われた。価値を認められるということ。応えねばならぬこと。行いの報いは必ずあるということ。人の期待を受ける意味と重さと。だからこそライは卜部にだけは甘えたかった。ライが背負わねばならぬことを誰よりもよく知っていて、指摘してくれた卜部だからこそ、ライは甘えたかった。つんと血の匂いが鼻をつく。涙があふれそうだった。もっとも頼りにしたい人は風のようにすり抜けるのがもっとも上手い人だ。これが藤堂あたりであれば最後まで面倒をみるかのように付き合ってくれるだろう。千葉や仙波、朝比奈でもそうだろう。だが卜部は違う。お前はこうだと指摘しておいて後は素知らぬ顔をする。言い募ればそこからはお前の責任だから俺が口を出す領分じゃあねぇ、とこうだ。優しいようでいて冷淡。突き放す冷たさと同時に教えてくれる温かさ。その塩梅にライはいつも翻弄される。逃れられない。魅せられる。
「好きです」
「脈絡がねぇだろ。お前言語形態をもうちょっと勉強しろよ、学校行ってるンだろ」
「そう言う卜部さんだって」
「俺は最低限の義務教育のでだよ。高等教育なんか受けてねぇあほだから好き勝手言うンだよ」
すぐに軍属入りしたしな。卜部は懐かしむように甘く言葉を口内で転がすようにゆったりと話した。そこにライが入り込む余地はなく、加えてそのきっかけであったろう藤堂の影がちらほらと浮かんだ。
「それはそうとお前、最近よくゲットーの裏の方へ出入りしているって聞くぜ。止めとけよ。お前が見るような綺麗な場所じゃあねぇからよ」
危険もあるし、と卜部が呟く。だが二人がいるのはそのゲットーの中でも危険な路地裏の一角なのだ。
「あなたを捕まえるためです」
それは嘘であり真実である。ゲットーの暗渠に興味がわいた。そこへうろつく卜部の存在が気になった。それはいつしか慕情へ変わった。好きってこういう感情なんだ。迷惑になりたくない。でもそばにいたい。情報を共有したい。我儘は果てなくわいた。
「首輪つきの猫なんざいねぇぜ」
「だったら僕も猫になる」
「シャレにならねェこたァ言うなよ」
卜部がこっちだとライの白い手首を掴んだ。頬へとんだ返り血を指先でぐりっと押すようにして拭う。せっかく綺麗な面してンだから綺麗にしとけ。卜部はうそぶくように言ってからおかしいといわんばかりに笑いだす。
「俺の寝床に案内してやる」
袋小路で寝るよりはましだぜ、とうそぶく。
「良いか、底辺を這うってなァどういうことか覚えとけよ。吐き気催すようなこともするンだからよ。残飯あさったり泥水や汚水すすったりして生きてくってのが底辺を這うってことなンだよ。食えないものなんてねぇってのがどういう意味か、すぐに判るぜ」
それでも大丈夫ならお前さんは十分にこの路地裏の住人だな、と卜部が笑う。風のようだと思う。優しくて冷たくてきつくて。それでもそれがないと困るのだ。
「あなたと一緒にいられるなら、何でも」
それは、誓いだ。
《了》